《弓道史概論》
 
 
 
1 弓矢の起こり
 
 いったい弓はいつごろから使用されるようになったのであろうか。大昔、人類は採集、狩猟、漁撈を中心とする生活を営んでいた。彼らは石器を使用し、落とし穴や石槍などで狩猟をしていたが、その石槍を投げ槍に、そしてさらに発展させ、弓矢を発明したものと考えられている。出土品により、弓矢の起源は数万年、数十万年前と推測されている。世界中を見渡しても、弓の文化を全く持たなかった民族(アポリジン、マオリ族など)は希で、ほとんどの民族が弓矢を使用していた。東洋では日本の他、中国、インド、満州、蒙古などそれぞれが弓の文化を持っていた。東洋の弓の分布を大きく分けると、大陸系、太平洋系の2つに分けられる。
 
 
2 日本における弓矢のルーツについて
 
 日本における弓矢の使用は、その出土品から1万数千年から2万年前であろうと推測されているが、出土品も少なく詳しいことはなかなか判らない。少なくとも縄文時代にはもうすでに弓矢が使用されていたものと思われる。
 神話の中でも、天照皇神が背に千筋の矢を負っていたことが記されている。「天麻迦古弓(あめのかごゆみ)」「天之波々矢(あめのははや)」という呼称も見られる。初期には大陸系の短弓、後に短弓と東南アジア系の長弓が入り交じって使用され、4、5世紀頃には長弓が使用されていたと考えられている。しかし、遺跡発掘などでも、弓矢は石鏃、銅鏃(弥生時代より使用、4世紀頃まで)、鉄鏃(5世紀頃から多く使用)、骨や角を利用した鏃などが出土しているが、鏃以外の残存物が非常に少なく、研究資料が少ないため、まだまだ不明な点が多く、更なる考古学的方面からの発見・研究が待たれる。
 完全な形では日本最古と考えられる弓体の残存物は、奈良正倉院に数張が収められている。単一弓(丸木弓)で2m以上の長弓である。正倉院には手首に巻く鞆も現存している。7世紀頃の古墳と推定されている千葉県金鈴塚古墳からは、鉄鏃のほか、何製か不明(銀製、金銅製)であるが被せ方式の「弭金具」も出土している。現在の弓は削り出し式の弭であるが、過去において被せ方式の弭を使用していたのは興味ある事柄である。
 
 「魏志」に東夷に関する記述がある。「夷」という文字の成り立ちは弓を持った人である。弓と人が重なっている。東方の未開人を意味している。東夷は黄河の中・下流地域より東の民族をさしていう。満州、朝鮮や日本の民族をいっている。さらに、日本人について記述した部分が「倭人」の項目で、卑弥呼の記述で有名であるが、『魏志倭人傳』とよばれている。これには「木弓短下長上」との記述があり、3世紀頃の弓について記したものとして興味深い。
 
 日本の弓は世界各地の弓と比較してみると、非常にその長さが長く、独特の形をしている。世界の弓は握りの位置が弓の中央にあるのにくらべ、我が国の弓は握りの位置が下から約三分の一のあたりに位置しているという特徴がある。日本の弓は世界に類を見ない美しい形を持っているとの評価をよく耳にするが、上長下短のその割合は黄金分割(golden section)にたいへん近いとの見方をしている人もいる。黄金分割とは一つの線分を分けるに、小部分の大部分に対する比を大部分の全部に対する比に等しくなるように分割する方法で、その比を数字化すれば、1対1.618とされている。長方形などの縦と横との関係もこの比になる安定した美感を与えるとされている。
 
 日本の弓がはじめから下部を握る構造であったかどうかはわからないが、おそらく当初は中央部を握り、諸条件による試行錯誤の結果、次第に現在のような位置に落ち着いたものと考えられる。では何故日本の弓が長弓で、中央でなく下部を握るようになったのであろうか。この答えは明確にはなっていないが、推測としては、まず弓の材料となる自然木を比較的加工を施さず弓に使用した場合、下部が強く、上部が弱いため、中央握りでは上下のバランスが悪く、握りを下げた方が引きやくなるということがあげられる。しかしなぜ加工を施すことを考えなかったのかという疑問が残る。他の民族では加工を施している。日本においてもそのような技術はあったはずである。また長い弓という利点については、破損を防げるという効果がある。
 日本の弓の技術的な部分はモンゴル系統の影響が見られ、ヨーロッパの射法に比べて矢を引く長さ、すなわち矢尺といわれるものだが、この矢尺がたいへん長く、技術的には親指の末節関節かもう少しその内側(基幹部方向)のあたりに弦を保持して引く引き方である。この取り懸けの方法を蒙古式(モンゴル式)射法とよんでいる。他の取り懸け方、アーチェリーなどの地中海式、原始的で子供の遊びなどでもよく行われる摘み方式のピンチ式射法と比較すると、蒙古式は、楽に矢尺を多くとることができる。わが国でも初期においての取り懸け方法は、おそらく、ピンチ式射法またはその変形によったであろうが、時代はわからないが蒙古式へと移行していったものと考えられる。取り懸け方法が蒙古式であるということは弓の湾曲する際、弓の材質に対してたんへんな負荷を与えることになり、弾力性のある材質が必要となる。例えばある民族の弓をみると、動物性の繊維で補強を施すといった工夫をしているが、そのような材質での補強を行わない場合には、弓の長さを長くして弓の曲げ応力を軽減してやる必要がある。わが国では、弓に相応しい動物性繊維が入手困難であったとは考えにくいが、そのような手法を取り入れてはいなかった。その接着技術の有無が関係しているかもしれないが、何らかの理由により長大な弓を使用することを選択するに至ったと考えられる。長大な弓の場合、中央部を握って使用する場合には、上方の目標物に対しては問題がないが、下方の目標物に対しては、弓体下部が障害となって扱いにくい。そこで長大な弓の握る部分を下方に移し、破損防止と操作性の両方を充当(別の見方をすれば妥協点か)する弓の長さと握り位置が定まっていったとの見方もできる。戦いの場における座しての弓射や馬上での弓射などの発展と弓長、握り部位の関係も無視はできないであろう。
 
 射術的な面では大陸系統の影響がみられるのに対し、この弓の材質などは東南アジア系統との関連も推測される。また実際に私が見て確認したわけではないが、ポリネシアの弓は上長下短であるということを聞いたことがある。日本の弓のルーツを探る上で興味あることで、何かヒントを与えてくれるかもしれない。 
 
 狩猟の道具であった弓矢は、恵みをもたらしてくれる神聖なるものとしても取り扱われるようになってゆき、儀礼、祭礼でも使用されたと考えられるような弓矢の遺物も発見されている。またやがて武器としても使用され、実用的にも装飾的にも、弓の製作方法が工夫・改良され、威力・耐久性も少しずつ向上していった。そして中世の戦乱時代において、弓は武器として最も重要視された。
 源平合戦で、那須与一宗高が、平家の舟に掲げられた扇を射落として敵も味方もその技を賞賛した話は有名で聞いたことのある人も多いと思う。実戦によって弓の技術・弓具も更に研究が進み、革新的な名人の出現により、流派の発生の源がつくられていった。
 
 
3 流派の成立について
 
 流派の成立ということを見て行く場合、弓射の古実的な面と技術的な面に注目しなければならない。弓術流派は他武術と比較して早い時期に流派が成立したという見方もされているが、技術体系が確立され成文化され、伝達様式が整っていった時期を弓術流派の成立時期とみると他の武術と比較しても決して早かったわけではない。やはり日置流の祖、日置弾正が現れ、活躍した、室町中期から後期が弓術流派の成立の時期であるとの解釈が適当であると考えられる。それに対し、それ以前にあったとされる流派は実は日置流が成立してから○○流を称したものであり、また日置流諸派の流派としての体系整備にならって確立されていったものなので、現在我々の認識している流派というものではなく、その家々に伝えられてきた「やり方」「様式」といったもので、家を中心として伝えられたものがほとんどである。
 
 日本の弓術は射術の目的から分類すると以下の3射法に分けることができる。
     1、歩射  2、堂射  3、騎射 
 いずれも、その射術の目的を達成するために、長年に渡り、多くの先人が工夫研究を重ね、積み上げられた技術体系である。それぞれの射術は技術面のみならず、弓具においても目的に合った合理的なものが工夫研究され、今日の科学に照らし合わせてみると、先人の経験にもとづいた教えは驚くほど洗練されたものであることに気づく。
 
 歩射は、実戦の場(戦場)において威力(貫徹力)のある矢を確実に目標物に命中させるための技術である。歩射射術は、15世紀後半日置弾正正次によって技術が体系化され、その後「日置流弓術」として栄え、九流七派(九流十派、八流七派、七流八派)といわれる多くの流派が発生していった。多くの流派が発生、分派したとはいえ、歩射としての弓術の根本は皆同じものである。
 甲冑を着用した実戦の場(戦場)での射術から、時代が下がり素肌で弓を射るようになったこと、また新しい工夫、新たな考案、思想的裏付けの変化などにより、弓術に対する考え方などが改良されていった結果、多くの流派に分派していったといえる。
 
 
 
 堂射は、京都三十三間堂の縁の端から端まで一昼夜にわたり矢を射通す「大矢数」や「千射」「百射」「半堂」「継縁」などという競技的要素を含んだ射術が、江戸時代においてたいへん盛んとなり、その目的を達成するために改良工夫された射術のことである。「通し矢」とも言われる。
 慶長11年(1606)浅岡平兵衛が51本を射通し、その後次々と記録が塗り替えられ藩をあげて天下一を争うようになった。財力のある紀州藩、尾州藩、加賀藩などから多くの天下一が誕生している。寛文3年(1669)、尾州藩星野勘左衛門、8000本(総矢数10、542射)、貞享3年(1686)、紀州藩和佐大八郎、8133本(総矢数13、053射)の記録が生まれ、和佐大八郎の記録が最高記録となっている。
 堂射は、矢を飛ばす空間が限られたものであること、また、24時間引き続けるということから、矢飛びの良さや、射手の疲労をいかに少なくして、射続けるかというところに射術の特徴がある。堂射も日置流系統の流派によって研究され、特に日置流竹林派はその技術、弓具面で深く工夫研究し、堂射における名射手を多く輩出した。日置流竹林派は、日置弥左衛門を流祖としているが、石堂竹林坊如成が日置家の祈願僧として、吉田出雲守重政( 日置弾正から三代目)に弓術の教えを受けたという説もあり、いずれが正しいかは現在のところ研究の余地がある。また、この堂射の記録達成の為に工夫改良された弓具は、現在の的前の用具にも大きな影響を与えている。
 
 騎射は馬上において弓を射る技術のことで、流鏑馬・笠懸・犬追物が代表的なもので騎射の三物と称される。騎射は、小笠原流、武田流などの流派がその技術の工夫研究に心血をそそぎ、特に小笠原流は、鎌倉時代より現在に至るまで代々連綿として親から子へと絶えること無く伝えられ、その伝統を保っている。
 また、礼法故実の研究にも優れていることは当代に並ぶものはない。現在、騎射として行われているのは流鏑馬だけとなってしまったが、各地の神社などの奉納神事として行われているものはほとんどが小笠原流か武田流の流鏑馬の様式を受け継いだ人たちによって奉仕されている。流鏑馬は、人馬一体となって弓矢を射るという技術であり、その習得過程も工夫され、それぞれ段階がある。また、目標物(的)が馬を馳せて行く前方にあるために、弓構、打起を体の前で行い、両腕の間に目標物(的)を見ながら引分けに移るという方法をとっている。
 
 現在のこっている流派は日置流系統の流派と小笠原流、武田流である。昔は「九流七派」(九流十派、八流七派、七流八派)とも称されたが、実際にはもっと多くの流派が出来ては、消滅していった。日置流系統の流派の多くは歩射・堂射両方の射術を持っているが、史的観点から歩射(ほしゃ)系の流れを汲むものと堂射(どうしゃ)系の流れを汲むものに分けることができる。印西派(いんさいは)、大和流(やまとりゅう)などは歩射を主としており、尾州竹林派(びしゅうちくりんは)、道雪派(どうせつは)、本多流(ほんだりゅう)などは堂射系の流れを汲んでいる。しかし本多流は最も新しい流派で、その成立時には堂射はほとんど行われておらず、実際上は歩射を主とした流派となっている。竹林派、道雪派なども歩射の射術を持っている。小笠原家を中心として発展してきた小笠原流は歩射と騎射の両方の伝統を持っている。武田流は騎射を主とし、現在流鏑馬が披露される場合は、小笠原流か武田流の門人による場合がほとんどのようである。
 
 
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